フィールドワーク。私は専門ではないのだが、その地に住み、その地の言葉でコミュニケートすると、そのエリアを理解する深さが違ってくる。文化人類学の先生などは、第三国などに長期間滞在して、フィールドワークしてその研究報告をされている。
一方で、身近なことでいうなら、たとえば地元などのお祭り。東京三大祭の一つがあるエリアについてだが、住んでいる人しかわららない、重圧やらもろもろ含めてありますよ実際。うまく伝えられませんが。それは、単に訪れて見聞きするだけでは、おそらくわからない。実際に住んでいる人しか、わからないこと。住んでいても、参加しなければそれはわかりません、きっと。
で、志賀理江子さんについて。実際、震災前から住んでいる東北で被災した写真家。地元の方と、お年寄りの皆さんとべったりとコミュニケートした生活という日々のなかで被災した。だから、震災について語っても、私はとてもリアルで、しっくりくる。
フィールドワーク、なんでしょうかね、彼女の活動。その地に長期間生活しているけど、研究はしていない(という気がする)。文化人類学の研究方法は、フィールドワーク(現地調査)、参与観察(実際に祝祭なども中に入って体験し、経験して、知識として持ち帰る)、そして民族誌、この3つだという。志賀理江子氏は、生活者。フィールドワーカーではない。フィールドワークの基本は、俯瞰できるかということでもあるから。でも、なんだろう、彼女はたぶんフィールドワーカー。それは、入りこみすぎない、入り込みすぎることができない性分なのかもしれない、はっきりわからないが。分析する立場の人ではないし、そこが、文化人類学の人との違いなのかも、作家だし。かといって、岡本太郎とも違う。岡本太郎は、『贈与論』のマルセル・モースに学んでいた人ですよ、たしか。志賀理江子は、もっと、なんというか、比較人類学ではなく、社会学的というか、文化を比較しているわけじゃないし。カラダで感じたまま、表現していて、それを言語化したときに、岡本太郎ほどの表現じゃないので、おそらく、感覚がそのまま地元化していて、それを言語化しているのですよね、たぶん。だから、文化人類学エリアにはカテゴライズされなくて。
あー、うまく説明できませんが、酔っ払ってるので。
名取・北釜に移住された志賀理江子VSフィールドワーク、
返信削除とてもいい対比で、違いがよくわかりますね。
氏の近作「螺旋階段」、仙台での展覧会を見逃しましたが、
せめて写真集だけでも、手に取ってみたい、と思いつつ。
peteさん。
削除志賀さんは、住まわせてもらえる条件が地元の記録写真を撮影することらしいので、フィールドワーカーにとっては理想的かもしれませんね。文化人類学的に「フィールドワーク」とは、2年その地で過ごすのが基本らしいですよ。